NSPの天野滋については、現在でも「もっと評価されるべきだった」「作詞・作曲家として過小評価されていたのではないか」という声があります。しかし経歴を確認すると、生前まったく評価されていなかった人物というわけではありません。NSPは1970年代を代表する叙情派フォークグループの一つとして人気を集め、アルバム総売上は300万枚を超えています。代表曲「夕暮れ時はさびしそう」は大ヒットし、天野自身も多くの楽曲で作詞・作曲を担当しました。[参照:日本クラウン NSPプロフィール]
一方で、吉田拓郎、井上陽水、松任谷由実、オフコースなど同時代の音楽家と比較すると、後世の日本ポップス史や音楽評論で天野滋の名前が大きく取り上げられる機会は多くありません。その意味で、「人気はあったが、作家としての評価や音楽史上の位置づけが人気ほど広く共有されなかった」と表現する方が実態に近いでしょう。
この記事では、天野滋とNSPが実際にはどの程度評価されていたのかを確認したうえで、それでも現在「過小評価された」と感じられる理由を、作品の性格、1970年代の音楽シーン、メディア露出、活動歴などから整理します。
- まず天野滋は生前「評価されなかった」わけではない
- それでも「過小評価された」と感じられるのはなぜか
- 天野滋の詞は「大事件」ではなく日常の感情を描いた
- 「叙情派フォーク」という呼び名が評価を狭めた可能性
- テレビよりラジオ・口コミで支持されたことも影響した
- 同時代に強力なシンガーソングライターが多すぎた
- 天野滋は「作家本人」よりNSPの名前で知られた
- 他の歌手への楽曲提供もしていた
- NSPの活動休止が長かったことも大きい
- 2002年の再結成後には再び大きな支持を集めた
- 天野滋の急逝が本格的な再評価の機会を奪った
- 「評価されなかった」のではなく「評価のされ方が限定されていた」
- なぜファンから見ると評価が低すぎると感じるのか
- 天野滋の強みは「普通の言葉を歌にする能力」
- 現在は「叙情派フォーク」を別の視点から評価できる
- 「夕暮れ時はさびしそう」だけで判断すると天野滋の幅を見失う
- まとめ|天野滋は生前も高く支持されたが、作家としての評価が実績に追いつかなかった
まず天野滋は生前「評価されなかった」わけではない
天野滋は1953年に岩手県一関市で生まれ、一関工業高等専門学校で中村貴之、平賀和人とNSPを結成しました。NSPは1973年に「さようなら」でデビューし、翌1974年の「夕暮れ時はさびしそう」が大ヒットします。
人物事典では「夕暮れ時はさびしそう」が約35万枚のヒットとなり、その後も「赤い糸の伝説」「弥生つめたい風」「八十八夜」などがヒットしたことが紹介されています。またNSPはアリス、オフコースらとともにニューミュージックの一時代を築いたグループとして記録されています。[参照:コトバンク・天野滋]
日本クラウンの公式プロフィールでも、NSPは「叙情派フォークの代表的グループとして一世を風靡した」とされ、アルバム総売上300万枚超と紹介されています。少なくとも商業的・大衆的な成功という意味では、かなり大きな評価を得ていたグループです。[参照:日本クラウン]
それでも「過小評価された」と感じられるのはなぜか
ポイントは、人気と批評的評価は同じものではないことです。NSPには熱心なファンが多く、レコードも売れましたが、後年の音楽史を語る文脈では、同時代の一部アーティストほど頻繁には登場しません。
例えば1970年代の日本音楽史を振り返る際には、フォークの社会性なら吉田拓郎や井上陽水、バンドサウンドの革新性ならはっぴいえんど、シティポップにつながる系譜なら大瀧詠一や山下達郎、といった「音楽史上の分かりやすい物語」が作られます。
NSPの魅力は、そうした大きな革新性を前面に押し出すものではありませんでした。若者の日常、恋愛、孤独、夕暮れ、季節、故郷といった小さな感情を繊細に歌う音楽だったため、音楽評論上の「革命」「新しいジャンルを作った」といったストーリーへ組み込みにくかった面があります。
天野滋の詞は「大事件」ではなく日常の感情を描いた
天野滋の作詞の大きな特徴は、社会的な大テーマよりも、個人の心の動きを丁寧に描いたことです。
恋人との別れ、夕暮れの寂しさ、季節が変わっていく感覚、青春期の不安など、誰にでも経験がありそうな感情を身近な言葉で歌いました。そのため当時の若者には強く支持された一方、評論の対象としては「素朴」「叙情的」という一言で分類されやすかった面があります。
近年NSPを振り返る論評でも、彼らの特徴として若者の弱さや挫折を率直に歌った点が再評価されています。当時はその繊細さが「女々しい」と受け止められることもあったとされますが、現在の感覚ではむしろ感情表現の細やかさとして聴くことができます。[参照:MusicFILE「NSP/さよなら」]
「叙情派フォーク」という呼び名が評価を狭めた可能性
NSPには早い段階から「叙情派フォーク」というイメージが定着しました。もちろんこれは彼らの特徴をよく表している一方、一種のラベルにもなりました。
一度「叙情派」「青春フォーク」という枠へ入ると、作品が持つロック的なアレンジ、メロディメーカーとしての天野滋の能力、コーラスワーク、楽曲構成などが十分に論じられないことがあります。
実際にはNSPの作品はすべて同じタイプではなく、時代とともにバンドサウンドやシンセサイザーなども取り入れています。後期作品を聴くと、単純なアコースティックフォークだけで括れない楽曲も多くあります。
テレビよりラジオ・口コミで支持されたことも影響した
NSPはテレビ中心のスターというより、ラジオやライブ、レコードを通じて支持を広げたグループでした。
2005年に天野滋の訃報を受けて書かれたファンの記録の中にも、NSPについて「テレビなどに露出せず、ラジオや口コミでよさが伝えられた」という趣旨の回想があります。これは個人の感想ではありますが、NSPの当時の受容を理解する手がかりになります。[参照:YAMANON-BLOG]
テレビ出演が少ないアーティストは、リアルタイムでは強い支持を持っていても、後世に映像資料が繰り返し放送される機会が少なくなります。その結果、世代を超えた知名度の継承では不利になることがあります。
同時代に強力なシンガーソングライターが多すぎた
1970年代は、日本のシンガーソングライター史でも特に才能が集中した時代でした。吉田拓郎、井上陽水、南こうせつ、さだまさし、小椋佳、松任谷由実、中島みゆきなど、現在まで語り継がれる作家が次々に登場しています。
さらにフォークからニューミュージックへの移行期には、アリス、オフコース、チューリップなど人気グループも存在しました。NSPはこれらと同時代に活動していたため、単独なら非常に高い実績でも、相対的には目立ちにくくなりました。
これは天野滋の才能が低かったという意味ではありません。むしろ日本のポピュラー音楽史でも異常なほど作家層が厚い時代に活動していたことが、後世の評価を分散させた要因の一つと考えられます。
天野滋は「作家本人」よりNSPの名前で知られた
もう一つ大きいのが、天野滋の作品の多くが「天野滋作品」ではなく「NSPの曲」として認識されたことです。
NSPでは天野滋が中心的なソングライターとして多数の作詞・作曲を担当しましたが、一般のリスナーが作詞・作曲者名まで覚えているとは限りません。「夕暮れ時はさびしそうは知っているが、作った人の名前は知らない」という層も存在します。
ソロ名義で巨大なヒットを続けたシンガーソングライターと比べると、作家本人の名前が作品と直接結びつきにくかったことも、「天野滋個人が評価されていない」と感じられる理由でしょう。
他の歌手への楽曲提供もしていた
天野滋はNSPだけでなく、他の歌手への楽曲提供も行っています。
例えば石川ひとみには「ひとりじめ」「君は輝いて天使に見えた」を作詞・作曲しています。これらは石川ひとみのファンからも人気のある楽曲として現在まで紹介されています。[参照:歌ネット・石川ひとみインタビュー]
こうした仕事を見ると、天野はNSP独自の世界観だけでなく、女性歌手へ提供するポップソングも書ける作家でした。ただし職業作曲家として大量にヒット曲を提供したタイプではないため、「作曲家・天野滋」の名前が広く浸透するまでには至りませんでした。
NSPの活動休止が長かったことも大きい
NSPは1985年に中村貴之が脱退し、1987年に平賀和人が脱退したことで事実上活動を休止します。
その後2002年にオリジナルメンバーで復活するまで、約16年間NSPとしての本格的な活動がありませんでした。[参照:日本クラウン]
この1980年代後半から1990年代は、CD再発、テレビの懐メロ企画、音楽雑誌などを通じて1970年代の音楽が再評価され始めた時期でもあります。そのタイミングでNSPが現役活動をほとんどしていなかったことは、次世代のリスナーへの認知という面では不利だったと考えられます。
2002年の再結成後には再び大きな支持を集めた
興味深いのは、2002年にNSPが復活すると、全国でコンサート活動を展開できるほどの支持が残っていたことです。
2002年には日本青年館や大阪厚生年金会館でコンサートを行い、2003年のデビュー30周年には春秋合わせて18か所、2004年には24か所で大ホールツアーを実施しています。[参照:日本クラウン]
これはNSPが単なる「一発ヒットの懐メログループ」ではなかったことを示しています。活動休止から長い年月が経過してもコンサートへ足を運ぶファンが多数いたということです。
天野滋の急逝が本格的な再評価の機会を奪った
NSPは再結成後、再び活動を活発化させていました。2005年2月にはシングル「水のせいだったんです」とアルバム「Radio days」を発売しています。
ところが同年7月1日、天野滋は脳内出血により52歳で急逝しました。[参照:コトバンク]
もし再結成後さらに10年、20年と活動できていれば、若い世代との共演、テレビ出演、セルフカバー、再発企画などを通じて、天野滋というソングライターそのものが再評価される機会は増えていた可能性があります。52歳という若さで亡くなったことは、その機会を大きく縮めてしまいました。
「評価されなかった」のではなく「評価のされ方が限定されていた」
天野滋について考える際に最も重要なのは、「売れなかった」「人気がなかった」と「音楽史で十分に論じられなかった」を区別することです。
| 評価の種類 | 天野滋・NSP |
|---|---|
| レコード・アルバム販売 | 大きな成功を収めた |
| 1970年代の若者からの人気 | 非常に高かった |
| ヒット曲 | 「夕暮れ時はさびしそう」など複数 |
| 長期的なファン支持 | 再結成後も大ホールツアーを開催 |
| 音楽評論・研究での扱い | 実績に比べれば目立ちにくい |
| 天野滋個人の作家名認知 | NSPの知名度より低い傾向 |
つまり「天野滋は評価されなかった」というより、聴衆からは十分評価された一方、作詞家・作曲家としての批評的評価や後世への紹介が相対的に小さかったという整理が適切でしょう。
なぜファンから見ると評価が低すぎると感じるのか
NSPのファンにとって、天野滋の楽曲は単なる懐メロではありません。歌詞とメロディーが非常に個人的な記憶と結びついているケースが多くあります。
1970年代に高校生や大学生だった人にとって、「夕暮れ時はさびしそう」「さようなら」「八十八夜」などは、自分自身の青春時代と直接結びついた音楽です。そのため、これほど強い影響を受けた作家が一般的な音楽史では大きく扱われないことに違和感を持つのは自然です。
実際、天野の死去当時のファンによる文章にも、NSPの評価は実績に比べて低すぎるという趣旨の声が見られます。[参照:当時のファンによる回想]
天野滋の強みは「普通の言葉を歌にする能力」
天野滋の作家性を現在改めて評価するなら、難しい言葉を使わず、日常会話に近い言葉をメロディーへ乗せる能力は大きな特徴です。
文学的な比喩を大量に使用するタイプでも、強い政治的メッセージを発するタイプでもありません。それにもかかわらず、夕方の空気、若者の孤独、恋愛の気まずさなどが具体的な情景として浮かびます。
こうした作風は派手な革新性として論じにくい一方、何十年経っても聴き手の個人的記憶を呼び戻しやすいという強さがあります。NSPが活動休止後もファンを維持できた理由の一つでしょう。
現在は「叙情派フォーク」を別の視点から評価できる
1970年代当時、「男らしさ」や強い自己主張とは逆方向にある繊細な感情表現は、時に否定的に見られることがありました。
しかし現在では、男性が孤独、不安、未練、弱さをそのまま歌うことは珍しくありません。その視点から聴き直すと、天野滋の詞はむしろ現代的に感じられる場合があります。
当時は「女々しい」と評される可能性があった表現が、現在なら「繊細」「感情に正直」「日常の心理を捉えている」と評価される。この時代による価値観の変化も、NSPが現在再評価されやすい理由です。
「夕暮れ時はさびしそう」だけで判断すると天野滋の幅を見失う
NSP最大級のヒット曲として「夕暮れ時はさびしそう」が有名ですが、この一曲だけで天野滋の作品を判断すると作家としての幅を十分に把握できません。
初期の素朴なフォークから、よりバンド色の強い作品、1980年代的なサウンド、再結成後の作品まで制作しており、メロディーやアレンジの変化を追うと印象がかなり変わります。
天野滋を再評価するのであれば、ベスト盤だけではなくオリジナルアルバム単位で作品を聴く方が、ソングライターとしての変化や幅を理解しやすいでしょう。
まとめ|天野滋は生前も高く支持されたが、作家としての評価が実績に追いつかなかった
NSPの天野滋について「なぜ生前、妥当な評価を受けなかったのか」と考える場合、まずまったく評価されていなかったわけではないことを確認する必要があります。
NSPは1970年代に「夕暮れ時はさびしそう」などのヒットを生み、アルバム総売上300万枚を超える人気グループになりました。公式プロフィールでも「叙情派フォークの代表的グループ」と位置づけられています。[参照:日本クラウン]
それでも現在「天野滋は過小評価されている」と感じられる最大の理由は、大衆からの人気に対し、作詞家・作曲家としての名前が日本ポップス史や音楽評論の中でそれほど大きく扱われてこなかったことでしょう。
そこには、NSPが「叙情派フォーク」という枠で捉えられやすかったこと、テレビよりラジオや口コミで支持を広げたこと、1970年代に強力なシンガーソングライターが多数存在したこと、1987年から2002年までグループ活動が長く途絶えたことなどが重なっています。
さらに、2002年の再結成後には大ホールツアーを行うほど支持が復活していたにもかかわらず、天野滋は2005年7月1日に52歳で急逝しました。本格的な再評価が進み始めた時期に本人が亡くなったことも非常に大きな要因です。[参照:コトバンク]
したがって天野滋については、「才能が認められなかった作家」というより、同時代の聴衆からは十分に愛され成功したものの、その作家性を後世へ体系的に伝える批評・再評価が実績ほど進まなかった人物と見るのが妥当です。現在あらためてNSPのアルバムや提供曲まで聴き直すと、「叙情派フォーク」という一言だけでは説明できない天野滋のメロディーセンスと、日常の小さな感情を歌にする能力が見えてきます。


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